第10回 話し手にとってのことば、聞き手にとってのことば

担当:岡久太郎

概要

ほとんどの人は日常会話において、自分が誤解した、

あるいは相手に誤解された経験があると思います。

プログラミング言語のように人工的な定義がされていない

自然言語(普段我々が日常で用いている言語)において、

誤解が生じるのは必然であり、

むしろ誤解のないコミュニケーションを想定する方が難しいとさえ言えます。

 

言語学において、

誤解は“何を誤解したか”という観点からの研究が伝統的に行われてきましたが、

本講義では“そもそも理解/誤解とは何であるのか”という問を立て、

コミュニケーションにおける誤解について考えていきたいと思います。

また、講義後半では “Angela killed the man with the gun.”や

「四角いリュックのポケット」のような

文法的に複数の解釈ができる表現の伝達に関する研究を紹介し、

話し手の認識と聞き手の認識の差異がどのように生じるのかを考えていきます。

講義を終えて

今回は、全体を通して、私がどのような研究をしているのかということを具体的に話して、

院生の研究を肌で感じてもらえればと考え、講義を組み立てました。

 

まず、話し手と聞き手の知識の違いを取り上げ、理解とは何か、

誤解とは何かを考えることから講義を始めました。

「理解/誤解とは何か」という問いは、言語学よりも、むしろ哲学的な問いであり、

講義の中でも断ったように、簡単に明確な答えを出せる代物ではありません。

ですが、私の研究対象であるコミュニケーションについて考える上で、

避けては通れない問題だと考えています。

そのため、「理解とは◯◯だ」と言うことはできないけれど、

普段どんなことに頭を抱えながらコミュニケーションの研究をしているのか

という点を感じてもらえればなと思い、

あえてややこしいこの話題を今回の入り口として選びました。

 

後半では、前半で悩んでいたことを踏まえた上で、

具体的に私がどのような研究をしているのかという話をしました。

紹介したのは認知科学的な実験ですが、

その実験デザインの背後には

前半に話した哲学的な議論があるということを感じてもらえたらと思っていました。

この点は、言語学だけでなく、全ての分野に共通することではないかなと思っています。

 

4. アンケート質疑への回答など:

院生質疑の中で、

「誤解研究の(岡久の中での)ゴールは何か」といった質問がありました。

10月の講義では自己紹介を兼ねて少しお話ししたのですが、

私はもともと高校の国語の教師になりたいと思い、教育学部で勉強をしていました。

そんな私が言語学を専門にしようと思ったきっかけは、

国語学の授業ではなく、むしろ文学の授業でした。

私の受講した文学の授業では、1つのテクストに対する様々な解釈の仕方を考え、

議論する形式のものが多く、

そこで自分では考えつかなかった解釈に触れることができました。

それは楽しい経験であると同時に、自分が国語の教師になった時に、

人によってこれだけ多様に出てくる解釈の1つ1つを正しく掬い取り、

教室にいる全員がそれぞれの解釈を正しく理解できるよう指導できるのか

という問題を私に考えさせました。

もちろん、テクストに書かれている内容から、

(あくまで"一般的には")許されない解釈も存在しますが、国語の教員である以上、

間違っていない解釈が生徒から提出された場合、

なぜその解釈ができるのかということを他の生徒にも説明する必要があると

文学の授業を通じて思うようになりました。

私が、誤解を研究テーマとしたのは、この思いに根ざしています。

つまり、同じ言葉の解釈が人によって異なる時、

なぜ各々が各々の理解をしたのかを説明できれば、

逆に複数人を同じ解釈に導く手立てにもなりうると考えています。

アシスタントコメント

検討会参加者は、講師を含め4人だったが、検討会もこなれてきたからか、

教授法面でも、内容面でも突っ込んだ質問が出ていたのはよかったと思う。

しかし、院生側の集まりが悪い日に、真鍋くんに仕事が集中しがちなのは、

どうにかならないものかな、と思った(この点は、自己反省も含めてそう思う)。

 

前もって参加者をある程度把握しておくといいのかもしれないが、

それもそれで、負担になるのかもしれない。少し考えた方がいいのではないか。

少ない人数ながら、年明けのディスカッションや、シンポジウムについても有意義な話はできたと思う。

急遽、アシスタントを引き受けたが、院生質問を考えるのは、

講義を聞く態度も少し変わるので有意義だったと思う。