第12回 「教養」として問うべきもの

担当:谷川・瑞慶覧・村上

概要

アメリカでトランプ政権が発足してから、

ポスト・トゥルースという言葉を耳にしたことがある方は多いのではないだろうか。

ポスト・トゥルースとは、客観的な事実よりも、

個人にとって都合がよかったり、感情に訴えたりする情報が

影響力を持つ状況を意味している。

 

今回のディスカッションでは、「教養」という観点から、この大きな問題に取り組みたい。

登壇するのは、後期の授業を担当した谷川(哲学)、瑞慶覧(物性物理学)、村上(歴史学)の3名である。

 

「教養として問うべきもの」という今回の論点は、

疑似科学とどう対峙するのかといいかえることもでき、

その点で、前期のディスカッション「科学とは何か」とも表裏一体である。

また、これは、専門家(研究者)と非専門家のコミュニケーションの問題でもあるので、

後期のディスカッション「コミュニケーションを考える」にも通じる内容を持つ。

 

要するに、「教養」をめぐる今回のテーマは、

これまでの講義の総決算ともいえる内容なのだ。

昨年4月にスタートした総人のミカタの、

一年の締めくくりとなる議論が展開されるだろう。

今年度の総人のミカタの最終回を飾る今回は、

「教養」をテーマにしてディスカッションを行いました。

開始早々、フロアからも「総人らしいテーマですね」という声が挙げられましたが、

登壇者の面々もかなり思い入れのあるテーマだったゆえに、

全体的に熱の入った議論になったように思います。

その反面、講師それぞれの疑似科学紹介やパネルディスカッションに

多くの時間を割いてしまい、

フロアからの質問を多く取り上げることができなかったのは司会として反省しています。

拾い上げられなかった質問に対する講師からの回答は、以下に掲載しているので、

ぜひ一読してください。

 

さて、事例紹介や議論を通してそれぞれの講師や分野のスタンスの違いも

いくばくかは明らかになったように思います。

また、休憩時間にもいくつかの場所で議論が展開されるなど活発な意見交換もでき、

充実した時間となったといえるでしょう。

 

今回に限らず、一年間の総人のミカタの活動が実りあるものになったのは、

講師の準備だけでなく、フロアからの積極的な参加があってこそだといえます。

この場を借りて改めて感謝を述べておきます。

また、来年度もさらなる充実を目指し、活動を継続していくので、

ぜひ来年度も参加してください。よろしくお願いいたします。

 

4. アンケート質疑への回答など:

英語に関する質問に関しては、講師それぞれにいろいろな意見があると思います。

僕たちが学部生の時にはTOEICやTOEFLなどは全員参加ではありませんでしたが、

試験を目安にして勉強した院生もいます。

また、論文の講読など、日常的に研究する中で自然と勉強している人もいます。

いろいろなタイプの人がいるので、フリートークの時などに質問してくれると、

具体的な話が聞けて参考になると思います。ぜひ来期のミカタにも遊びに来てください。(真鍋)

 

今回の企画は、「大学教育の場」に限り、各専攻分野に即して「教養」のあり方を検討したものである。その対象は大学人であって一般市民ではない。登壇者は自身の専攻分野で修得されるべき〈基本的なものの考え方〉(我々のいうミカタ)を表明したに過ぎない。議論の前提と射程が十分に伝わっていなかったためか、あるいはこの点で誤解を生んだのではないかと思う。「教養=科学という見方はつまらないというか狭いと思う」とのアンケートのコメントはその例である。

それぞれの分野で科学と非科学とを峻別する能力、そして当該分野の「科学性」をとらえ返す内在的な反省こそが、大学教育において目指されるべき教養(教育)であると私は考える。知識と認識を支える地道な体験の世界は、私が担当した回で宮本常一の仕事を紹介したまでもなく、それぞれの分野に存在するものと思う。

私が批判の対象とした梅原猛の「エッセイ」について、どの程度なら許されるか、とのコメントが寄せられた。「表現の自由」の上、どのような文章も許されるとは思うが、こうした文章が持つ論理の飛躍や事実誤認を批判し、「エッセイ」と「論文」・「学術書」とを同列に認識しない能力こそが教養であると答えたい。

また梅原や上山春平らの本質還元的思考(全歴史を貫徹する「システム」の想定など)を批判したが、これは歴史学の認識を支える抽象化・論理化の作業とは全く別物の操作であることを申し添えておく。

限られた過去の痕跡から推論を展開する理性の能力に敬意をはらうこと。開かれた議論により知識を構築し続ける作業を知ること。そしてある時代とその文化を認識することの難しさを知ること。私は歴史学における「教養」・〈基本的なものの考え方〉をこのように考えている。最後まで付き合って下さった出席者の皆様に御礼を申したい。(村上)

 

講義中で言及された梅原猛さんに関連して、

「エッセイ」ということについて質問がありました。

ストレートに答えるというより、谷川なりに、書くことについて、

周辺的な情報を提供することで、回答に代えたいと思います。

エッセイという言葉には、「試みる」というニュアンスがあります

(辞書を引くといいですよ)。

つまり、ものを書くとき、書こうとする当の内容の触りや漠然としたイメージはあっても、

全体の明確な構想がないまま書き始めて、書きながら試行錯誤する余地が、

エッセイという書き方にはある。

要するに、エッセイ的に書こうとするとき、他ならぬ自分が書いているのに、

書くことによって、自分が思いもよらないところに連れて行かれる

――エッセイには、そういう可能性があるということです。

ちなみに、そうしたエッセイの可能性を好意的に評価した哲学者に、

鷲田清一さんがいます。

さらに、有名なフランスの哲学者、モンテーニュの主著が、

『エセー(随想)』だという知識を思い出してもいいでしょう。

『エセー』が重要な議論を提出しているとみなされ、

学問的探究の源泉になっているように、エッセイだったら明確なことは言えない、

ということはないと思います。

すごく意義のある文章も書けるし、みんなの耳目を集め、

検討したくなるような魅力ある文章も生み出せる。

根拠をもって、何らかの主張を提示することも、当然できるでしょう。

しかしながら、「学問っぽくなさ」という点では、

通常のエッセイも、哲学的エッセイも似ています。

専門家集団に認められた「論文の形式」に則っていないからです

(それがどんなものか気になったら、

『論文の教室』などのアカデミック・ライティングの本を読んでみてください)。

では、文章は全て論文的でなければいけないのかというと、そんなことはないでしょう。

それに、論文的な書き方をするというアカデミズムの習慣も、

ごく最近形成された習慣なので、

「そうでなければならない、とも言えない」ものでしかありません。

とはいえ、論文的な形を守ることには、方法的な利点もあるはずです。

論文の形式は一つではありませんが、ともかく、その形式に則って書くことで、

漠然と書くよりも、説得的で明瞭に書くことができ、

論理的な印象を与えることができたり、

自分自身の考えを構造的に整理できるという利点があります。

逆に言えば、論文的な書き方の習慣が強力になりすぎて、

この形式にそぐわないものが学問の俎上に載りにくくなったということでもあります。

例えば、対話篇を論文だと叫んでも、多分、受け容れられないでしょう。

これは、いいことなのでしょうか?悪いことなのでしょうか?……と、話が逸れました。

さて、ここで紹介したエッセイ的書き方、そして、梅原さんの書き方を好意的に読めば、

そのどちらからも、何か大切なことを考え、語ろうとしているとの印象を受けるでしょう。

エッセイを書くことは、線を引いていく軽快な筆の動きが、

探究している「謎」に創造的な手がかりを与えてくれると期待することなのかもしれません。

そして、鷲田さんもモンテーニュも梅原さんも、その軽快さに賭けたのでしょう。

ただ、今回紹介された梅原さんの文章では、

科学を批判しながら自説に都合のいい科学的成果を(特に説明もなく)取り込んだり、

あるいは、最初に使った「霊」という言葉の意味合いが

変わってしまうことに気づかないまま、

「遺伝子」を「霊」や「生命」と言い換えてみたり……。

要するに、自分の紡いできた言葉すら、裏切るような文章になのです。

これは、学問的な厳密さ――既存の証拠との整合性――とはまた別の次元の話です。

その意味で、提示された文章が、自身の発する言葉に、

どれだけ誠実なのかに注意しながら読むことは、学問的な基準とは違う仕方で、

文章と付き合うための一つの手がかりになると思います。(谷川)