第12回 「科学」とは何か

担当:近藤・杉谷・須田

概要

科学的根拠、科学的認識、科学的態度…

「科学」は、奇跡や迷信などから区別される知的態度として、

私たちが持つ知識の確からしさを保証してくれるように見えます。

大学をはじめとする研究機関で日々遂行される営みもまた「科学」として、

社会から一定の信頼を得ているようです。

ところでそもそも「科学」とは何なのでしょうか?

 

本講義では、政治学・解析学・地球科学の各分野より一名の講師が、

白熱した議論を通じてこの巨大な問題に取り組みます。

キーワードは、○○学における〈真理〉・〈方法〉・〈展開〉。

それぞれの学問は、何を明らかにするのか。そのためにどのような手法を採るのか。

どのような来歴を経て現在に至るのか。

そして未来に向けてどのような責任を持つべきなのか。

対象を異にする学問の「ミカタ」の違いを確認することで、

「学際」研究への共通の視座が見出せるのかもしれません。

 

総人のミカタ発足の年、2017年度前期の掉尾を飾る本講義への、

みなさまの積極的なご発言を歓迎します。

文責・司会:村上(歴史学)

講義を終えて

司会からのコメント

・ディスカッションを振り返って

地球科学(自然科学)・数学(形式科学)・政治学(社会科学)を専攻するメンバーが登壇し、

歴史学(人文科学)に携わる不肖が司会を務めました。

通常なら科学史・科学哲学の専門家が論じるはずの内容を、

実際の研究過程と手続きを知る各分野の専門家が論じる。

これが今回のディスカッションで意図したものです。

事前の打ち合わせ抜きの議論では、

「科学者集団とその見解の社会的自立性」

「研究費をめぐる諸政治」「科学における演繹と帰納」等々の論題多岐に亘り、

その堂々巡りは質疑盛況のなか終わりました。

 

・「宗教と科学の違い」について

これは学部生の方から頂いた質問の一つです。

登壇者のいずれもが自身の学の「科学性」に葛藤していましたが、

そもそも「神のような視点」から事物を「完全に」観察・記述することは不可能です。

研究者は、固有の思想や立場、公理に依拠せざるを得ず、その限りで認識の限界を持ちます。

研究者の見解は「科学者集団」内部での永続的な検討と相互批判の対象に据えられますが、

一体その営為は一個の宗教世界で共有される世界観の形成過程と本質的な違いはあるのか。

私もまた、その成案を得ていません。

 

質問への返答

ここでは、ディスカッション時にお配りしたコメントシートへの返答をします。

質問をまとめ直しているので、少し文意が変わってしまったかもしれませんが、ご了承ください。

 

Q1.三者三様で、完全に「科学的」とは言えないという内容だったが、

どうすれば今後「(完全な)科学」と呼べるようになると思うか

あるいは「(完全な)科学」にならなくてもよいとするのか

(杉谷)

政治学を科学として規定しようとする場合、いくつかの方法があります。

理科系の科学と同じような段階、方法論をより一層、進めていく「実証主義」が最も有効な手法です。

しかし、実証主義による科学化を批判する動きもあります(ポスト実証主義)。

ポスト実証主義者たちは、政策を過度に科学化してしまうことで生じる、

政策を倫理的な側面から問えなくなることや、

議論や熟議といった営為が蔑ろにされてしまうといった問題を厳しく指摘しています。

英語文献になりますが、ポスト実証主義者の政策研究として代表的なものに、

フランク・フィッシャーの"Reframing Public Policy"という本があります。

機会があれば、こういった本の解説もしてみたいと思っています。

(須田)

少なくとも数学に関しては「科学」を目指すべきではないと思います。

それを目指すためには方法論を根底から書き換えることが必要ですが、

そうすることは数学の持つ最大の利点、すなわち確実性を捨てることにほかならないからです。

(近藤)

人が知覚し身体的に経験する、

つまり主観的に捉える世界を客観的に記述し直すという営みを科学だとすれば、

科学が「完全に客観的」となることはおそらくないでしょう。

より客観性を高めることで、

より多くの人が受け入れ得る世界観を作ることは科学の目指す方向のひとつかと思います。

 

Q2.人の意思が入ると科学的に不確かになるという話だったが、

人の意思が全く入らない科学はあり得るのか

(杉谷)

政治学や政策研究において、こういった問題は常に大きいものとして存在しています。

社会科学に関して言うと、真鍋くんが専門としている社会学の分野で有名な、

マックス・ウェーバーが『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』という本を書いています。

読み易く、分かりやすい本ですので一読をお勧めします。

政治学者や政策研究者たちは時に、党派性に立脚した発言をすることもあります。

こういった要素を踏まえて、学者たちの議論を吟味する必要があります。

問いに対する答えを遅ればせながら言うと、そういった科学はありえるでしょうが、

なかなか無いというのが現状ではないでしょうか。個人的な見解ですので、十分吟味してください。

(須田)

人の意志が全く入らない科学というのはちょっと不可能なように思います。

ある物事に意味があるかないかを判断するのは結局人間なので、

そのような科学があったとしてもほとんど意味のないものになるでしょう。

(近藤)

科学はそもそも、世界への好奇心や知識欲といった人の意思から始まるものかと思います。

たとえ実験・観察、理論の構築、仮説(シナリオ)の構築などを機械やAIにやらせても、

そもそもの問題提起を人がする以上、人の意思の入らない科学は存在しないというのが私見です。

 

Q3.数学が「自然」を対象としていないのに「自然科学」に括られがちであることを

指摘されていたが、自然科学以外に分類される可能性はあるのか

(須田)

一つの考え方としては、自然科学、人文科学、社会科学に加えて

形式科学という分類を導入するというものがあります。

数学に加えて論理学や情報科学のように、

抽象的な体系を演繹的な方法によって扱う学問をまとめて扱うということです。

 

Q4.数学が「今ある理論の中でこんなことができるかどうか考える」とは具体的にどんな感じなのか

(須田)

理論という言い方だとわかりづらいのですが、要するにある仮定の下で、

どの程度のことができるか考えるということです。

ちょっと違うかも知れませんが、

問題意識としてはパズルを最短手順で解くとか、

ある縛りの下でゲームの勝ち方を見つけるといったことに近いように思います。