文化心理学入門 –心の文化差とその起源–

担当:伊藤篤希

概要

1990年代前半に文化心理学が誕生して以降、それまで普遍的だと考えられていた心の性質の多くに文化差が存在することが明らかにされてきました。本講義では「文化的自己観」や「包括的思考/分析的思考」といった文化心理学における基礎的なトピックを中心に、日本を含む東アジア文化圏と欧米文化圏の比較を通して見出された心の文化差についてお話しします。

 

また、近年の文化心理学では国際比較による文化差の実証を超えて、人々が生きる環境に着目することで心の文化差が発生するに至った起源を探求する研究が盛んに行われています。本講義では発展的な内容として、こうした社会生態学的アプローチによる研究についてもお話しします。

講義を終えて

 本講義の目標は、1) 文化心理学の基礎的なトピックを紹介し、人の心のあり方が文化によって異なること、2) そうした心の違いは人が生き抜いてきた、あるいは現状置かれている社会生態学的な環境の違いを反映している可能性があることをお伝えすることでした。また、人の心や社会性を考えるにあたって進化論的なミカタを取ることの面白さを伝えることが、2回の講義全体を通した大きな目標でした。

 

 前回に引き続き、受講生の方々のコメントや講義後の検討会では情報量の多さと話し方(早口で抑揚がない)に関する指摘を多くいただきました。これら2点については前回の反省からかなり意識はしていたのですが、まだまだ改善が不十分でした。特に後者に関しては自分のクセなので、講義の経験を積んでいく中で少しずつ改善していきたいと思います。また、個々の研究における詳細な手続きやその研究が持つ限界についてきちんと聞きたかった、話すべきだったというコメントも多くいただきました。今回は社会・文化心理学が描こうとしている big picture をお伝えすることに専念するため、そうした情報は意図的に省いたのですが、今後はこれら2つをいかにバランス良く盛り込むかについて慎重に検討しながら講義を組み立てていきたいと思います。

 

 これまで大学の非常勤講師として勤めたことがないので、60分というまとまった時間で講義を行ったのは本企画が初めてでした。実際に模擬講義を行い、フィードバックをいただくことで、それまでは想像していなかった様々な改善点が浮き彫りになり、大変勉強になりました。今後、大学で講義を担当することになった際には本企画で学んだことを生かしてより良い講義を組み立てられるように頑張りたいと思います。この場を借りて、模擬講義に参加して下さった受講生の皆様と総人のミカタの運営に携わる皆様に感謝申し上げます。

アシスタントコメント

 今回が、社会心理学の二回目の講義だった。非専門家の前で話す機会がほとんどなかったという割に、物慣れた雰囲気だった。話しぶり、具体例、補足、講義の構成、どれも完成度が高い。本人は緊張していたと言うが、受講生にはわからなかっただろう。

 とはいえ、改善点がないわけではない。早口で、切れ目なく話がちである、(紹介する実験数やトピック数など)情報量が多く、個別の実験やトピックについての紹介に繊細さが欠ける、ステレオタイプ的な語り口になっている、用語の解説が不十分/不用意であるといった点は、改善の余地がある。

 

 私の研究する哲学者たちが、(当時の)社会心理学者でもあったこともあり、伊藤さんの研究分野と「ものの見方」は遠くない。それゆえ、アシスタントが担当する「院生質疑」では、より繊細な論点について話そうと考えた。

 しかし、複数の論点を一度に二つの質問で聞こうとしたため、まとまりのない内容になったことを反省している。限られた時間で、すべてを聞くのは困難だったろう。

 それゆえ、論点を削ぎ落し、より端的な形で、ここに質問とその意図を再掲しておきたい。

 

1.「一枚岩でない文化をどう捉えるか」

 講義中で用いられた「文化」という言葉がざっくりしていた。講師も、ある国の文化が一枚岩と考えているわけではないはずだ。紹介された研究では、母集団に支配的な特徴を捉え、それを母集団の特徴として「一般化」しているが、とはいえ、少数派の特徴が、その国の文化として些細というわけでもないだろう。結論上の一般化がもたらしかねないステレオタイプについてどう考えているのだろうか。

 

2.「実験結果の語り方について」

 得られたデータや、用意されたグラフが母集団の多様性を捉えていたとしても、そして、実際のデータ解釈は繊細だったとしても、実験結果を語る段階では、「AはBである(日本人は~だ)」という物言いになっている。その点について、何らかのエクスキューズが引き出せればと考えた。

 というのも、一部の東洋思想家、一部の京都学派、そして、今西錦司・梅原猛・梅棹忠夫といった人たちの「文明論」が作ったステレオタイプを、科学的な装いで肯定するような側面もあったからだ(彼らへの態度は、人によって色々あるだろうが、私は、意義がないわけではないにせよ、相当警戒すべきだと考えている)。

 

 お気づきの方もいるだろうが、これらは、同じことを二つの観点から聞いている。次お会いするときには、ざっくばらんに、改めてこれらの論点を議論してみたいと思う。

 

谷川(哲学・観光学)