担当:岡久太郎
「ビール」
このことばの意味が分かるかと聞かれれば、日本人の大学生であれば、
ほとんどの人がその意味を答えられると思います。
辞書を見れば、「麦芽を原料として…」等といった説明があり、
その文章が「ビール」ということばの意味であるとほとんどの人が考えます。
しかし、例えば、食卓で父親が空のグラスを手にして、
母親に向かって「ビール」と言葉を発した場面を見て、
この言葉の意味は何だと聞かれたら、
先に挙げた「麦芽を原料として…」といった辞書的な説明ではなく、
「父親が母親にビールを注ぐよう求めている」等といった
説明をする人が大多数だと思います。
このように、日常におけることばの理解とは、
単に使用されている単語の意味を知っているか、
それらを組み合わせて文の意味が取れるかといったレベルだけではなく、
話し手/書き手はどのような意図でそのことばを発しているのか
といった理解まで含意されることがほとんどです。
本講義では、
言語学的な視点からこのようなことばの理解の諸相について考えていきたいと思います。
今回は、コントや誤解の実例を取り上げ、
我々が「ことばを理解している」と言う時の"理解"のレベルには
どのようなものがあるのかを考えていきました。
言語学というと、言葉遣いの歴史的変化を調べているというイメージや
母語以外の言語の語彙や文法について調べているといったイメージが強いかと思いますが、
私の専門としている認知言語学では、
私達が発している/理解していることばが、
その時に私達の心に描かれている/描かれる内容とどのように関係しているのか
を探求しています。
もちろん、認知言語学においても、
言語の歴史的変化や外国語の語彙・文法についての説明がされていますが、
今回はあえて現在私達が使っている日本語の理解において、
語彙や文法といった観点だけでは捉えにくい側面に注目することで、
みなさんが言語学に対して持っているイメージを少しでも変えることができればと思い、
講義を構成しました。
また、講義の中では認知言語学よりも、語用論という枠組みについて多く言及しました。
認知言語学は語用論的観点を非常に重視する分野ですが、
認知言語学以外のアプローチで語用論の研究を行っている研究も多々ありますし、
認知言語学の研究であってもどの程度語用論的な視点を取り入れるのかは
研究者によって様々です。
今回の講義では、私の立場に基づいた話を中心にしましたが、
11/16のディスカッションではその点についても触れられればと思っています。
院生質疑の中で、
「誤解の事例を観察することで、
“なぜこの人物はこの理解をしたのか”という理由の説明をすることができるのか」
といった質問がありました。その場では、
「誤解を生じさせた文脈を見ることで、一部その“なぜ”の答えを提供できる」
という主旨のことを言いましたが、この答えは少し言葉足らずかもしれません。
より正確に言うのなら、次のようになるかと思います。
誤解が生じている場面では、当該の言語表現の理解において、
その背景となっている"文脈"が話し手と聞き手の間で異なっているはずです。
そこで、彼らそれぞれにとっての文脈の違いを見ることで、
なぜその場で誤解が生じたかを(一部ではありますが)説明できるのではないか。
そういうことを言わんとして「文脈を見る」という言い方をしました。
ただし、このように言ったところで、「それは単なる事実の記述であり、
そもそもなぜ話し手はAという文脈を参照し、
聞き手はBという文脈を参照したのかという問には答えられていないのでは?」
という疑問はつきまといます。
私は、認知言語学という立場を取っているため、
それらの理由は一般的な認知能力や人間が生まれてからの経験を伴って
獲得した知識体系から説明できれば良いと思っていますが、
正直なところ、言語学者がそこまでのことを言ってどれほどの意味があるのか
自分でも明確な結論が出せていません。
この点は今後の課題にさせて頂けたらと思います。
普段使っている言葉について、その言葉を使う瞬間に、
私たちはいったい何をしているのかを改めて考えてみる、そうした講義だったと思います。
このメカニズムを考えるために、講義の中では誤解が重要な役割を占めることになりました。
上手く行った時ではなくむしろ「失敗」の瞬間に注目するというのは、
分野を問わずしばしば利用するアプローチですが、
まだ研究になじみの薄い学部生にとっては、そうした観点も新鮮な着眼点だったのではないでしょうか。
前半では、単語の意味や文法だけでなく文脈に注目しなければならないことを、
ラーメンズのコントを具体的に分析することでわかりやすく伝えていたと思います。
他方で、後半は、自身がまさに今取り組んでいる研究に近い内容だけに、
少し複雑な構成となっていました。
知識伝達だけでなく、研究の最前線やその様子を見せることも、大学の講義に不可欠のことだといえるので、
そうした「不明瞭さ」が残ってしまったこと自体が、悪いことだとは思いません。
実際、フリートークで学部生からも活発に質問をもらい、
また検討会でも、異分野の院生と込み入った議論が展開されたのは、
そうした「不明瞭さ」に触発されたからでもあるように思います。
とはいえ、こうした「不明瞭さ」のうちのいくらかは、検討会で挙げられたように、
目次を示すことで講義の全体像を示したり、配布資料をもう少し詳しくしたりと、
まだ改善できる余地があるようです。
こうしたフォローを充実させることで、認知言語学の知見とその面白さを、
より広い層の学生に伝えることができるようになるのではないでしょうか。
言語という身近で不思議な対象だけに、2回目の講義やディスカッションも、今から楽しみです。
真鍋(社会学)