担当:真鍋公希
第1回では「人間の行動を社会が及ぼす拘束力から説明する」ことが、
社会学の基本的な「モノの見方」であることを説明しました。
つまり、社会⇒個人という方向性について考えたのですが、
今回はそれとは逆、つまり個人⇒社会という方向について、社会学的に考察してみたいと思います。
そして今回考えるテーマはずばり「資本主義」。
私たちはモノやサービスを効率的に取引する経済活動を行って、日々の生活を営んでいます。
このような経済活動のことを資本主義と呼ぶことができますが、
今日につながる近代資本主義には、それ以外の時代の経済活動とは異なる特徴的な精神性があります。
その精神性とは「無駄を徹底的になくし、より多くの利益を生み出す」ことを重要視する、
「合理的」な活動こそが望ましいとする態度です。
それでは、この精神性はいつごろ、どうして生まれたのでしょうか?
第1回のときにとりあげたデュルケーム『自殺論』とならぶ社会学の有名な古典である、
M.ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の《精神》』を読み解きながら、
この問いに対してウェーバーはどのように答えを提示したのかを一緒に見ていきましょう。
今回の講義では、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を通して、
「個人⇒社会」という方向性を考えること、
それから、文献を使った質的な研究の論理構成を捉えること、
を講義の目標にしていました。
前回の『自殺論』が「社会⇒個人」と量的な研究ということだったので、
単発で受講しても大丈夫だけれど、
2回受けると相補的な内容になるという構成にしたのですが、
参加されたみなさんはいかがだったでしょうか。
最後の院生質疑では、この二つの論点をさらに引き出してもらえる質問をもらいましたし、
フリートークでも引き続き、関連した話題でみなさんとお話しすることができました。
興味を持ってもらえたようでとてもうれしいですし、
機会があればぜひ『自殺論』『プロ倫』を実際に読んでみてください。
また量/質という調査方法の違いと、
「社会⇔個人」の関係に注目するという社会学の見方は、
再来週の萩原・真鍋のディスカッションの切り口になります。
今回参加したという人も、できなかったという人も、
来週、再来週のミカタにぜひ遊びに来てくださいね。
また前回はスライドでしたが、今回は板書を使った講義スタイルに挑戦してみました。
テンポが遅く感じたという感想ももらったので、まだまだ改善の余地がありますが、
それでも個人的には楽しく、手ごたえを感じながら講義ができました。
ディスカッションはしませんでしたが、
対話形式の質問には鋭い返答をもらったので、僕自身も勉強になりました。